広教組被爆二世協第31回総会
2026年5月31日(日)、エコード広島で広教組被爆二世協第31回総会を開催しました。2024年度以降の経過報告・とりくみ総括、2026年度の活動方針、役員選出等、全ての議案が承認されました。二世運動の推進をめざし、組織の強化・拡大をはかることや、二世としての碑めぐりガイド活動を始めること、集まって学習することの必要性等を確認しました。総会後は、上野さんのNPT再検討会議報告を聞き、自己紹介や意見交換を行いました。



上野勢以子さんのNPT再検討会議再度イベントスピーチ原稿(日本語版)
広島県在住の被爆二世の上野勢以子です。母は12歳の時、爆心地から1キロ地点で被爆をしました。やけどはせず、しばらくは元気でしたが、3か月後に放射能の影響か、髪の毛は抜け、嘔吐を繰り返しました。
母は、被爆の体験については多くを語りませんでした。しかし、被爆時の様子が胸に焼き付いており、ふとした瞬間によみがえることがありました。電子レンジで鶏肉の温めに失敗し、皮が破裂した様子を見て「これが原爆なんよ!」と叫んだり、被爆の際の様子の絵は、顔をゆがめて、「描けん!」とつぶやき、赤、青、黒の3色のクレヨンを持って、何重にも円を描き、「地獄だった」と言ったりしました。
母は、長い間、高血圧や糖尿病を患っていましたが、なぜか、病院不信があり、検査の数値が悪くても、通院の勧めを受け入れませんでした。体に良いお茶や、大きなお灸などの民間療法をしていましたが症状は悪化し、晩年は人工透析を受け、心筋梗塞で何度も倒れ、63歳で亡くなりました。
原爆投下直後、1946年、原爆による傷害の実態を詳細に調査するため、アメリカ科学アカデミーがABCC(原爆傷害調査委員会)を設立しました。(1975年からは日米共同出資の放射線影響研究所) 核兵器は環境や人体に長期的な影響を与えるとわかっていたからだと思います。母は、ここに呼ばれ、調査を受けていました。母は調査について詳しく話したことはありませんが、「調べるだけで、治すことはしてくれない。被爆者はモルモットよ」「医者は信じられん」と話していました。ここでの体験が、病院不信の一因ではと思っています。
多くを語らなかった母でしたが、8年前、放射線影響研究所から、調査記録の開示を受け、被爆状況を知ることができました。被爆直後、家の下敷きになり這い出したこと、川を泳いで逃げた事など、12歳の子どもが一人で逃げ惑う姿が書かれていました。それが母の描いた絵と重なり、胸が締め付けられました。調査記録の中には、「外国人医師の治療拒否」や「一人が怖い」などの被爆後の怒りや不安の記述がありました。
ABCCの調査は次世代にも続きます。被爆者から生まれた子への影響の調査です。私も高校生の時にABCCから調査を受けるように呼び出しがありました。「被爆二世死亡率調査」だと後で知りました。「行ったら何をされるかわからん。」と、母は何度も断りましたが、断りきれませんでした。母と私はお互いあまり健康について話をしたことはありません。被爆の影響は心配だけど、私が不安になるようなことは言わないようにしていたのかもしれません。
私は、なんとか健康に生活していますが、体調を崩すたびに不安を感じます。子どもの体調変化にも敏感になっています。被爆二世は、世代を超えた核被害の連鎖を感じている世代だと痛感します。放射線影響研究所の被爆二世に対する調査は続き、今はゲノム調査が進められています。
私は、広島市に住んでおり、「原爆」による差別は感じたことはありませんでした。しかし、広島県外の大学で、被爆二世だと話すと、「うつらんのか?」と言われ、唖然としました。広島を出ると、原爆や被爆二世のことを、何も知らない、知ろうとしない、それでいて偏見をもち差別をするという現実があると悲しくなりました。
これは、今もだと思います。原爆が落とされたのは81年前です。つらい思いをしている人たちに、さらにつらい思いをさせているのは、現代の私たち、社会の有り様ではないでしょうか。核兵器があるということ、持つということは、誰かが被害にあうのではなく、自分も被害にあうのだと気づいて下さい。核兵器の恐ろしさを正しく知ることが必要です。核兵器と人類は共存できないと強く思います。ありがとうございました。

